もう一人の自分

日本に帰化して約20年。 日本国民の一人として普通に暮らしていますが、元在日として思うこと、あれこれいろいろ。

中学校で始まった民族教育

私は両親から民族教育と呼べるような家庭教育をほとんど受けていません。

 

「民族の誇り」

在日朝鮮人からたまに聞く言葉ですが、

私は、その民族の誇りというものを親から教わった記憶がありませんし、

民族に対する誇りというものを強く意識したり感じたこともありません。

  

私の通った中学校は日本の公立中学校です。

中学校2年生のある日、在日の生徒だけが体育館に召集されました。

私が通った中学校は、在日の生徒が全体の2~3割を占めていたので、

全校で200名近くの在日生徒が一同に集められた事になります。

 

そして校長から在日朝鮮人に対する訓話が始まりました。

「在日朝鮮人として誇りを持ちなさい」

「民族の誇りとして本名を名乗りなさい」

そのような話が壇上で長々と繰り返されたことを覚えています。

 

その後、私はその校長から再三に渡り本名を名乗るように説得され、

朝鮮の文化史研究会の立ち上げに協力するように要請も受けました。

何故だか、校長室には韓国の国旗である太極旗が掲げられ、

文化祭の日には全校放送で朝鮮の民謡「アリラン」が流れてきます。

もう一度言いますが、私の通った中学校は日本の公立中学校です。

 

当時は、大阪市の一部小中学校で在日朝鮮人生徒への民族教育が盛んになった頃です。

「大阪市外国人教育研究協議会」

「本名を呼び・名のる運動」

「公立学校に在籍する在日朝鮮人子弟の教育を考える会」

在日生徒に対する差別問題是正の運動が展開され、

大阪各地の学校で民族学級が開講されたり、

大阪市教育委員会では「本名を用いる教育」の方針が打ち出されましたが、

それらは在日民族講師達が中心となり、民潭がバックアップした運動の結果であることを、

私はかなり後になってから知ることになります。

 

結局、私は本名を名乗らなかったし、

朝鮮文化史研究のクラブ作りにも参加しませんでした。

そして、民族に対する特別な誇りというものも持ちませんでした。

なぜならば、この校長が私に押し付けようとした民族の誇りとは、

在日朝鮮人として民族差別に立ち向かう為の手段だったからなのです。

私は在日差別の被害者に仕立て上げられる事は、まっぴら御免でした。

 

日々、学校に通い、放課後はクラブ活動で汗を流して、

遊び仲間と一緒にいろんな事を覚えたり、好きな女の子と付き合ったり、

感動することもあれば、落ち込むこともあり、

私は被差別者でもなく弱者でもなく、

 皆と同じように普通に中学校生活を送っていただけなのです。

私にとって民族の誇りなど必要ありませんでした。

 

「民族の誇り」

自分の民族に誇りを持って生きている人も沢山いると思いますし、

その誇りの強さや形も人様々だと思います。

 

私は、民族の誇りというものをあまり持てなかったかも知れませんが、

自分の中で自分に対する誇りは持っていたいと思っています。