もう一人の自分

日本に帰化して約20年。 日本国民の一人として普通に暮らしていますが、元在日として思うこと、あれこれいろいろ。

叔父と北朝鮮帰国事業

私の母は7人兄弟の長女で、7歳上に兄が一人いました。

私にとっては叔父ということになります。

 

叔父は日本の小、中、高校を卒業後、大阪の公立大学に進学しました。

母によると、叔父は大学生になった頃から共産主義に深く傾倒し、

総連の前身組織である朝連や民戦という民族組織の活動家として、

戦後、在日朝鮮人が引き起こした騒乱事件にも深く関わり、

以降、総連の中核として組織運営に携わるようになったそうです。

 

1952年、

大阪で吹田事件と呼ばれる在日朝鮮人のデモ隊と警官隊の衝突事件が起こりました。

朝鮮戦争に対する米軍の韓国支援に対する反対行動です。

叔父はその暴徒化したデモ隊の首謀者の一人として指名手配され、

当時、中学生で何も事情を知らない母は、逃走中の兄の関係者からの連絡により、

指定された場所に衣服や食料などの日用品を何度か届けに行ったそうです。

 

叔父はその後、1955年に結成された総連の支部長を務め、

朝鮮学校の校長に就任するとともに、

1959年から開始された北朝鮮への帰国事業の推進に精力を注いだようです。

叔父は、自分の親族に対しても北朝鮮帰国への強い説得を繰り返し、

私が生まれて間もなく、

既に結婚して所帯を持っていた母と、もう一人の妹を残し、

私の母方の祖父母は、まだ幼かった兄弟4人を引き連れて北朝鮮へ渡っていきました。

母にとっては、自分の兄が自分の親兄弟を引き裂いたことになります。

 

 叔父は10年以上に渡り、総連幹部として活動しながら、

多くの在日朝鮮人を北朝鮮へと送還することで、

総連にとっては功労者の一人だったのかも知れません。

 

ところが、北朝鮮の悲惨な内情が徐々に伝わり出すと、

叔父は周りの在日朝鮮人達からも猛烈な批判を受け始め、

その事では母とも諍いが絶えず、激しい兄弟喧嘩を何度も繰り返していたようです。

私はもう既に小学校の高学年になっていたので、

大人達の言い争っている内容が少しは理解する事が出来ました。

叔父は結局、自ら一家を率いて北朝鮮へ渡っていきました。

 

私の両親は、何らかの政治的な思想を持っていた訳でもなく、

また、民潭や総連などの民族団体との関わりも避けて暮らしてきたと思います。

 

でも当時、もし私の両親が叔父の説得に少しでも応じるような事になっていれば、

私は、一歩間違えれば、北朝鮮で暮らしていたかも知れません。

日本で暮らすことが出来た自分の運命につくづく感謝です。